【問わず語り、星、うたう】

 

「子供が生まれたら、とわ、って名前にしたいと思う」

「とわ?」

「そう。永遠と書いて、とわ。すてきだと思わない?」

そう言って笑った彼女は、真っ白なベッドの上で泣いていた。

 

僕が彼女と出会ったのは、去年の夏のことだ。燦々と陽のふりそそぐ暑い日だった。僕が細々と活動している文芸サークルでは、せっかくだから今までの作品を展示してみようという試みをしていた。小説の展示なんて奇妙なことをよく考えるなと思いながら、僕は一冊の本を展示することにした。

『うたうむらさき星』と銘打った本は、中身こそ凝ってはみたが、装丁は専門ではなく、お粗末なものだったと今でも思う。簡単な紫色のカバーに、申し訳程度にかませた金色のブックマーカー。先端からは、藤を模した硝子細工がつり下がっていた。

 

僕は、そこで彼女と出会った。

 

大して客も来ない展示会なのに、その時間だけはやけに人でごった返していた。おそらく、部長の知り合いが大挙して押し寄せてきたのだろう。僕はそんな中で、ポエムを載せたフォトシートやポストカードなんかを捌いていた。

「あ、こいつですよ」

不意に後ろから部長の声が、聞こえた。振り返ると、部長は一人の見知らぬ女性と一緒だった。彼女の手には、紫色の本が――僕の本があった。

「こいつがその『うたうむらさき星』の作者です。この方がおまえと話したいんだって」

「え、ええと、」

「じゃあ、あとよろしく」

部長はそれだけ言って去って行った。後に残されたのは、僕と、長い黒髪をきれいにそろえて一つに結んだ彼女だけだった。

「この本、とってもよかったです」

「え、そ、そうですか」

「私、こんなすてきな本に初めて出会いました。作家さんに会えるなんて、光栄です」

「え、ええ、いや……。僕なんて、そんな、たいした人じゃないですから。作家になれなかった一般人ですよ」

「そんなことないです」

彼女の黒くて大きな目はまっすぐで、すこし赤らんだ頬が真っ白な肌に映えてきれいだった。

「作家、続けた方がいいですよ」

先輩たちの声が、どこか遠くで聞こえていた。

 

 

私にとって、あなたは夢だった。

 

 

僕は実は、『うたうむらさき星』を最後に、作家業からはきっぱり足を洗うつもりでいた。芽も出ないし、周りからの評価も厳しいし、年齢的なこともあった。しかし、彼女の言葉が僕の心にしみていって、結局はまだ作品を書いている。

『うたうむらさき星』が思わぬヒットになったというのも、執筆を続けられた要因だった。ヒットと言っても、別に出版社から出たとか、そういうことではない。仲間内で、話題になったという程度だ。でも、僕にとってはそれでも十分な評価だった。

展示会の翌々日。僕は、Twitterでしらないアカウントにフォローされた。誰だろうと思ってプロフィールを見ると、『星*シンガー』とあった。歌手に知り合いなんていないはずだと思いながら、誤フォローの可能性も考えてフォローを返さないでいた。しばらくして、DMの申請が来た。開いてみると、その『星*シンガー』さんからだった。勧誘か何かかと思いながら文面を追う。

『先日展覧会でお声がけした女です。もしよかったら、お話を伺いたくて、お茶でもいかがですか』

僕は飛び上がるくらいおどろいた。

なんたって彼女は美人だし、こんな根暗な自分にかまうような人ではないはずだ。しかもシンガーだったなんて。僕はだまされているのかと思いながらも、それでもいいかと思い切って、彼女と会う約束を取り付けた。

 

 

満点の夕空にのぼるきみの星は、いつかきらきら舞い降りる。

 

 

待ち合わせ場所になんと30分も前についた僕は、街中を歩いている人の波を見つめていた。疲れたサラリーマン、楽しそうな学生、恋人を待っているOL、とにかくたくさんの人がいる。まるで満天の星空のようだ。あまたの星は、それぞれの輝きを持っている。きらきらと光るネオンの中で、人間の光の方がきれいだとぼんやり思ったときだった。

「待たせちゃって」

「あ、いえ」

そこには、あのとき会った彼女が立っていた。よく見ると、彼女の髪は黒髪ではなく、つやのある深みを帯びた深い緑色だった。すらりと伸びた体躯は、僕よりも高いだろうか。白い肌にネオンの光が反射して、どこか無機質に見えた。

「あかりです」

「あかり?」

「はい。星と書いて、あかりって読みます」

「あ、そうなんですね。きれいなお名前ですね」

「ありがとうございます」

花のほころぶように、少しだけ目を伏せて笑う彼女は、やっぱりきれいだった。

僕は精一杯のおしゃれなバーに彼女を連れて行った。僕は酔わないようにアルコールは控えていたが、彼女はカシスオレンジを頼んでいた。

丸い氷が、からん、と彼女の手の中ではねる。

「シンガーさんなんですよね、あかりさんは」

「はい。小さなライブハウスで歌ってます」

「すごいな」

「すごくないです」

「すごいですよ。僕なんて、書くことしかできないから。表舞台になんて、とても立てない」

「書けるのはすごいことだと思いますよ」

「そうかなあ」

「そうです。ねえ、先生。お願いがあるんです」

「先生なんて呼び方、」

「いいじゃないですか。先生なんだもの。お願い、聞いてくれますか」

ふふ、と小さく笑いながら、彼女は僕を見た。

濡れた黒曜石のような瞳の奥に、きらきらとうたう星が見えた気がした。

 

 

いつか生まれ変わっても、私は『私』を選んでいたい。

悲しみと、愛を引き換えに。

 

 

それからまたしばらくの時がたった。彼女のお願いは、作詞をしてほしいとのことだった。作詞は専門分野ではないし、うまくやれる自信もなかった。でも、僕はそのお願いを受けた。なぜだか分からない。夏の夜の星に魅せられたのかもしれない。彼女の言葉で作家を続けられた恩返しだったのかもしれない。とにかく、僕はその話を受けた。

 

そして、僕の詩は完成した。

 

彼女からライブハウスに来てほしいと言われたのは、詩が完成してから2ヶ月後のことだった。夏が去って、秋になっていた。

肌寒くなった道を歩いて、慣れない場所へ足を踏み入れる。指定されたライブハウスは、僕が思っていたよりもこじゃれた空間だった。ダウンライトに、バーカウンターが映えている。受付のお兄さんに、「ワンドリンクです」と言われ、バーカウンターで渡すコインをもらった。なんとなくあの日のことを思い出して、僕はカシスオレンジを注文した。

彼女の出番は、ライブの最後だった。その前に歌っていた人たちもみんなすごかったが、僕の目が釘付けになったのは、やっぱり彼女一人だった。

黒い衣装に身を包み、髪を下ろした彼女は、照明を一身に浴びてきらめいていた。冴え渡る歌声は、きんとつめたい夜空にも似ている。

 

瞳の奥に燃えさかるのは、彼女の『星』だった。

 

彼女は、僕の作った詩をバラードにして歌い上げた。最後に、「今日は作詞家さんが~」とか言ってくれることをかすかに期待したが、そんなことはなく、彼女は歌いきって去って行った。

 

 

一人の夜におびえても、涙を乾かすしかない。

 

 

 

小さな打ち上げパーティーをしようと言われて、その翌週彼女に会った。僕は、彼女に似合いそうだと、エメラルドグリーンのしずく硝子が付いたイヤリングを買った。実際に似合うかどうか、分からないけれど。僕は、彼女がきれいな緑色に見えていた。夏の色だ。始まりの夏の色。

一度目に会った場所で、僕たちはまた待ち合わせをした。

彼女は、相変わらずきれいな目で、僕をまっすぐ見た。

「私の歌、どうだった?」

「とってもすてきだった」

「よかった」

彼女は、はにかんだように笑う。大人っぽい雰囲気がふわっと崩れ、かわいらしさが顔をのぞかせる。

僕はずいぶん前から、彼女のことが気になっているようだ。

「あの、これ。星さんに似合うかと思って」

「え、なに?」

「イヤリング」

「うれしい」

彼女は、手の中できらめく緑色の硝子を愛おしそうになぞった。その場で付けて、首をかしげて笑った。

「似合う?」

「とっても」

「ねえ、先生?」

「なに?」

「先生には、好きな人いる?」

「……いるよ」

メロウなジャズが、ゆるりと僕たちの耳をなでる。

「私もいるよ」

彼女の黒い瞳に、僕が写っている。

「ずっと一番なの。その人だけが、私のことを歌わせてくれるの」

「……そうなんだ。どんな人?」

早鐘を打つような心臓の音が、僕の中だけにこだましている。

彼女は、心から愛しているというように、目を細めた。

「うん。9年前に、初めて付き合った人。スマートな人だった。頭がよくて、線が細くて、仕事ができた。私のことを、初めて認めてくれた人だった。でも、結婚してた。子どももいた。私のことを愛していると言っていたけど、子どもの方を愛しているから、結婚できないって言われたの。だから、別れた」

「……そう」

「でもね」

静寂が、うるさい。

「今、私、いちばんが変わっていく予感がするの」

 

彼女の手が、僕の手に触れた。ちらりと、イヤリングが光をはじいた。

「緑は永遠の色だと、僕は思う」

「私、永遠って、好き」

 

 

月にも星にも届かないから、ひとは手を伸ばす。

 

 

 

次に彼女に会ったのは、それからずっとあとのことだ。彼女は僕の詩を大事にしてくれて、何度もライブで歌ってくれていたという。実は僕も、彼女をモデルにした小説を書いていたりもした。あまり会う機会もなかったが、Twitterでは活動を眺めていた。ただ、冬が明けてから、更新が少なくなったのが気になっていた。

彼女から連絡があったのは、夏の始まりの日のことだった。ニュースでは初夏の知らせとして新緑をこれでもかと撮影した映像を流していた。なんと僕は、作家として仕事をしていた。その日も一本の寄稿小説の依頼を受けて、書き終えたところだった。本当に、人生は分からない。一年前の自分に、やめないでよかったなと伝えたいくらいだ。

固まった体をほぐすようにのびをしながらスマートフォンを眺める。DMの通知が一件あった。

何となしに開くと、『星*シンガー』からのDMだった。スマホを取り落としそうになりつつ、DM画面を開く。

 

「会いたいです、先生」

 

たったそれだけの文だったけれど、僕は鞄をひっつかんで外に走り出していた。

 

僕が星さんのところにたどり着いたのは、夕闇の帳が降りたころだった。DM2通。1通目に、会いたいと書かれていて、2通目にかかれていたのは、住所だった。僕の住んでいるところからは遠い場所だったけれど、電車を乗り継いでやっとたどり着いたそこは――病院だった。

恐る恐る、受付で名前を名乗る。星さんは、と聞くと、聞いてます、とナースさんが笑顔で受け付けてくれた。病室の番号を渡されたとき、僕はどうしたらいいか分からなかった。

301号室。

ドアの横のプレートには、彼女の名前が書かれていた。

控えめにノックをすると、中から懐かしい声がした。

「はい」

「あの、」

「先生?」

僕は、ゆっくりと扉を開けた。

そこには、星の光を一身に浴びて輝く、真っ白な彼女がいた。

「ねえ、先生。私、歌えなくなっちゃったの」

星さんは、きらりと緑色の硝子を耳で揺らめかせて、うたうようにそう言った。

きらりとひかったのは、彼女の涙だったのか、僕の涙だったのか、今でも分からない。

 

 

星屑の見えない夜も、僕はずっと信じている。

億千のひとのなか、巡り会えた、君との運命。

 

 

ベッドサイドでパソコンに向かって文章をたたいていた僕は、星さんのかろやかな歌声をBGMにしていた。

星さんは、もうあまり声が出せない。それでも、夜空にとかすように、あの日のバラードを歌っている。

不意に歌声が途切れた。

僕は彼女を見やる。彼女は、夜空を背負って、微笑みながら僕を見ていた。

「子供が生まれたら、とわ、って名前にしたいと思う」

「とわ?」

「そう。永遠と書いて、とわ。すてきだと思わない?」

「そうだね、あかりくらい、すてきな名前だね」

そう言って笑った彼女は、真っ白なベッドの上で泣いていた。

彼女の薬指には、僕と同じデザインの、銀色のリングがきらめいている。

 

 

それから、3か月がたった。

 

ここには天使がいるんだよと、ナースたちが噂する。

真っ白なワンピースを風にそよがせながら、夫の押す車いすの上で、微笑みながら亡くなった「星」のことを、彼女たちは頭に浮かばせながら、今日も噂する。

 

『――大好きだよ、先生。どうかしあわせにいきて』

 

 

――ぱたん。

男が本を閉じる。

「――先生、記者会見のお時間ですよ」

「はい」

『トワの夏』と名のついた本の表紙は、凜と立つ黒いワンピースの女性だった。